11.26
ミツが弱っているみたいだ、と保育園から連絡があった。
いつもとても元気で、よく食べるしよく笑う、歩くのもじょうずになって、いないいないばあが大好きで、
でもそんなミツが、どこかおかしい、と。
離乳食の時期から食べるのが好きで、食事の苦労はあんまりなかったのだけれど
保育園の先生はこう言った。
なんというか、不安やさびしさを紛らわせるために、むりやり急いで食べ物を口につめこんでいるみたいに見えるんです。
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ショックでしゃがみこんでしまった。
まだ1歳をすこし越えたばかりだというのに。
私の脳内ではあの悪夢が再現されていた。
あの狂ったような真っ暗の10年間。摂食障害の底なし沼。
誰も判ってくれないと、声を出さずに叫び続けたワンルームの部屋、いつになったら終わるのか、どこまで続ければいいのか、
はやくおわれはやくおわれなにもかもしんでしまえと呪いの言葉だけおなかにため込んでいた10年。
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一緒にいてあげる時間が少ないせいもあるかもしれません、
なるべく時間をとってあげてくださいね、と先生は言った。
ぐらんぐらんする頭を抱えて、いまやるべきことは何かを一瞬で理解した。
もっとあそぼう、ミツ。
仕事は仕事でなんとかなる。するよ。
ごめん。
ほんとうにごめん。
ミツは今日も笑っていた。
まだしゃべれないミツはそれでも身体いっぱいで感情を表現しようとする。
おまえの些細な苦悩になんて、たいした意味はないよ、と彼は言った。
私もそれに全面的に賛同する。
あそぼう、ミツ。
どこにだって行こう。空気が澄みとおってきたよ。
9.18
このまえ1歳になったミツを預けて、仕事に出ている。
1日のなかで一緒に過ごす時間が極端に少なくなったし、彼のことを考える時間もこれまでに比べて減った。
安心して預けられる環境があって喜ばしいはずなんだけど、
なんだか「収奪」された……じかんどろぼう、なんだろうか?……ような気がしてしまう。
毎日おおきくなる。
骨が伸びる。
しなやかに筋がのびちぢみする。
眼球の動きが鋭くなる。
指が繊細さを増す。
今日読んでいた『花のノートルダム』の一節でわたしは即座にミツを思い出したのだ。
彼はレースの指をもっていたと言っておこう、目覚めるたびに、「世界」を迎え入れるために伸ばされ、開かれたその腕は、秣桶のなかの幼な子イエスのような様子を彼に与えていたのだ、と−−
日々世界との接触面を拡大させているこのちいさな生物の格闘に見合うなにものかをわたしは闘い得ているか
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8.6
風の中で、すべてがいっせいに動き出す。
現存在が遍く弱々しい震えをおびて、すでに私の眼では捉えることができない。
ミツの眼はおそらく未だ機械に近いのだろうと思う。
統覚から限りなく自由な野生の眼だ。
見るべきものなど何もないという恐ろしいほどの自由を、彼はどのように生きているか。
羨みと恐怖の半々の感情を私は抱いている。
そして、そのうっすらと透き通った皮膜のかかった眼球に映り込んだ空の青ほどうつくしいものを、かつて見たことがあっただろうかと思う。
ミツよ、その「どうしようもなく見てしまうまなざし」は、もうおまえの運命だ。
耐えた先になにがあるのか、きっと誰も知らない。
誰の手も届かないところまで、安易な理解なんて求めないで、おまえはおまえひとりで、
行ってしまえばいいと思う。そう思うよ。
7.20
外に連れていくと、ミツはいつも風をつかまえようとする。
ずいぶん伸びた手足をさらにのばして、空の端まで指の限りに。
ちいさなてのひらに緑と蒼のにおいを含んだ風が柔らかくあたり、丸くかたまって指の間をすこし舐めて、きらきら散らばりながらもう一度指と指に絡まってすりぬけていく。それを不思議そうにミツが見ている。
両腕を夏草のようにぴんとはって風に向かう彼の背中の、肩甲骨の確かさはすでに少年のものだ。
木漏れ日が瞳を刺すのがおもしろくてしかたがない。
ひとつの葉とすべての葉が縫い合わされたり編み込まれたり、そうしてもう一度解きほぐされたりするのが悲しいような気がする。
夏というものを初めて呼吸した。
蚊にさされた跡が、ゆでたまごのような肌に醜い地図をいくつも残してしまう。
これも夏だとおもう。
ああ、風が吹いているよ。このつめたくてあたたかくて、やわらかくとがったものの声を聞きたいと思うよ。
ミツや、ミツ、こっちにおいで、こんなに汗をかいて。
夏風にあそぼうって言っといで!