good-bye, hi-lite.

恋とニコチン。

5.10


takagengenさんのついったー*1読んで、「愛の純粋贈与」についてぼんやり考えたりしていた。

私がミツの世話をしているこの一連の時間的行為は、果たして氏がキリスト教の幼児洗礼について言う「愛の純粋贈与」と同じものなのだろうかと。

なぜ、キリストは十字架に上ったのか。「自分とは無関係で、会ったことも見たこともない、未来の人々も含めた、全人類のために、勝手に」です。その結果、キリストは殺される。バカでしょう。そんなことをやる人は。「等価交換」=「商品経済」の論理で生きている人間はそう考える。

神の国? なんか下心、あるんじゃないの」と考える。「そうでなきゃ、あんなことしないだろう」と。現世を生きる者は誰だって。ところが、キリストは頼まれたわけでもないのに、無関係な人のために死ぬわけです。「愛の純粋贈与」です。


育児というのは、この「愛の純粋贈与」ではないように私には思われる。
何も「育児とは自身の未来に対する投資だ。従ってそれは等価交換の論理に基づくものだ」などというつもりはないけど。

たぶん、愛の純粋贈与というのは「自分とは無関係な」他者に向かって為されるものだということが子供を育てることと一線を画しているのかもしれない。
でもこどもって、自分に最も密着した他者であるだろうし、それは私が最近身を以て感じていることでもある。
「最も近い他者」であるからこそ、血縁というのはさまざまなねじれやわだかまりを生むものであることもうっすら知っている。
血縁に対する愛は純粋贈与と呼ばれるに値するのかどうか。


よくわかんない。
でもたぶんしない。


私がこの数ヶ月で感じ取ったのは、赤ん坊を育てるというのは義務以外の何ものでもない、ということだ。
だがこの「義務」というのは不思議なことに内発的に生じたものなのだ。
私はこれまでこのような形で義務というものを感受したことがないと思う。
義務は常に外部から強制されるものだった。
だから「〜しなければならない」というのは必ず苦痛だったし、それは後に何らかの形で評価を受けねばならないことの苦痛と緊張でもあると思う。
育児に関する義務は、「私がやらなければならない、それ以外にない(さもなければ人がひとり死ぬ)」というものだった。
これはもちろん極度の緊張を伴ってはいたが、決して外部からの強制ではなかった。
内発的義務というのは私にのみ課されたひとつの仕事のようなもので、それはまるで私の固有性を担保すべく誰かから「選ばれた」もののように感じられていたのだった。


誰から?

もちろん、ミツから。


例えそれが迷妄に近い思い込みにすぎないものだとしても、わたしにとってそれは歓びに近いものだったような気がする。
それにやはり、「純粋贈与」と言ってしまうにはあまりにも相互の関係性が濃厚だから、やはりこれは「愛の相互交換」くらいにしか言えないみたいだ。



そして気が付いたのは、育児という義務がこのような歓びを伴うのは、明らかにすべき「結果」というのがしごく曖昧で先送りにされているため、つまり「成長が完成」するという地点がいったいいつなのか、どうなれば「完成」なのかが誰にも判らないためだということだ。
始まりの瞬間だけは確かにあって、けれどもいつ終わるともしれないこの「生」というものは「物語」ではないと私は思う。
「生」とは「物語」にしてしまうにはあまりに過剰であまりに暴力的で即物的すぎるものだ。
逆に言えば「物語」になってしまう「生」がいかに多くのものを切り捨てなければならないかということだけど。
むしろそれは詩に近いのではないか。詩的、ではなく、詩そのものに。

嘘かもしれない。


今はまだしがみついてくるミツの手は、いつか自然に彼の方から離れて行くだろう。その季節がくるのを私は注視と放心の狭間で待ち続けるだろう。